始まりは舞台作り
学生時代に感じた壁や、前職の話など。SASIで働くに至るまでの話を伺いました。
今回は、SASIで経営企画として働く 吉松孝夫 のルーツを探るインタビューです。
────孝夫さんはどのような幼少時代を過ごしましたか?
生まれは、茨城県のひたちなか市というところです。2歳の時に父の仕事の都合で東京に引っ越しました。なので気持ち的には東京都民なんですけど、生まれと本籍地は茨城県になります。両親曰く、僕が2歳くらいの頃にぐるぐる回転しながら嘔吐するっていうことがあったみたいですね(笑)なので、まあまあアクティブだったんだと思います。
当時、すっごい可愛かったんですよ。記憶は全くないですけど、よく女の子に間違えられていたみたいです。小学校6年生の時に幼少期の写真を持っていく機会があったんですけど、学年の中でビフォーアフターがすごい人ベスト3に選ばれたんです。それくらい小さい時は可愛かったです。
物心ついた時には、目が悪くて。幼稚園くらいの時に、左目が遠視×斜視で、このままにしてると外斜視になるっていうので、矯正メガネみたいなものをかけてましたね。それが発覚した時は両親はすごく落ち込んだらしいんですけど。そこから小学校6年生まではメガネ小僧でした。
病院に診察に行くたびにメガネを新調するんですけど、その度にオモチャを買ってもらえた記憶があります。なので嬉しく病院に通っていましたね。
おかげで小学6年生の時にメガネをしなくてよくなったので、今に至るまで裸眼でいられるようになりました。
────小学校ではどのように過ごしていましたか?
ずっと水泳をしてました。幼稚園の年中くらいの時に泳げないことが発覚して、親にスイミングスクールに入れられましたね。惰性でずっと通い続けていたら全種目泳げるようになってました。辞めるタイミングがなくて(笑)
学校では、一周回ってこんなキャラでしたね。「一周回って」です(笑)紆余曲折ありましたね。
小学3年の時に、クラスの男女で大喧嘩になったんですよ。でも僕はこういうキャラだからスパイとして送り込まれるんですよ。真ん中にいる人って感じですね。「吉松くんはどっちの味方なの!」って言われましたね(笑)
────中学校ではどのように過ごしていたのですか?
中学生になって、知らない人がたくさんいるっていう状況になった時に、友達の作り方を忘れてしまったんです。同時に部活にも入らなかったんですよ。結果的つかみどころをなくしてしまい、オタクの道をひた走ったという感じですね。当時は、ガンダムSEEDの全盛期で。そっちの世界にひた走っていたらディープな友達とかができてきて、中学2年生までとっても暗い性格でしたね。そんな生活を送っていた中で、ある日ふと、自分の人生がモテることなく終わってしまうって思ったんです。やばいと思って(笑)服や髪の毛、キャラも変え始めました。
中学3年生の時はすごく楽しかったけど、それまでの記憶は結構辛いですね…。
明確に切り替えたっていうことが記憶に残ってます。
────高校ではどのように過ごされていたのですか?
スタートダッシュと部活に入ることが大事だと思って意気込んでいたんですけど、高校から部活を始めるのって結構難しくて…体操かバレーボールかで迷って、タッパがわずかにあったのでバレーボール部への入部を決めました。高校生活は楽しかったですけど、バレーボール部は一生やりたくないですね(笑)
走るのもしんどかったし、ジャンプするのもしんどかったです。なんで土日に部活行かなきゃいけないんだろうって思ってました。辞めたい!とは何回も思ったけど、3年間続けたのは、辞めるきっかけがなかったからですね(笑)
高校時代はアニメが好きっていうことは誰にも言ってなかったです。高校の時に僕が唯一輝いた時があって。それが高校3年の文化祭で劇をした時のことなんですね。うちの祖母はジャズダンス教室の先生で、母がバレリーナなんです。なので舞台のお作法とかの知識があって。そのことがあって、クラスの劇の舞台監督をすることになったんです。いざ作ろうと思ってやってみたらとても面白くて。文化祭で生徒の投票で出し物の順位が決まるんですけど、僕たちのクラスが劇部門1位をとったんです。この経験から「舞台を作る」ということに興味を持ち出しましたね。
────大学と就職について教えていただけますか?
大学では商学部に入って、経理や財務について勉強していました。学部を選んだ理由は、自分がいけそうな範囲の中で、偏差値の高い順に試験を受けていって、受かったのが商学部だったというだけなんです。今思うと考えが甘かったなと思いますね。親が大学の指定就職で就職していることもあって、僕も良い大学に入ったら良い職業に就けるっていう考えだったんです。それでいざ大学に入って、自由に勉強して自由に就職していいよってなった時にとても焦りましたね。勉強だけしてたら良いわけじゃないんだってその時に初めて気付いて。
就職活動で自己分析をしていく中で、自分が面白さを感じるものであったり、ルーツを考えた時に、舞台なんじゃないかなと思ったんです。
数日後に社会人になるっていう時に、夜中に目が覚めて、人生でこんなに安心して夜を迎えられることがもうないんだって思ったんです。自分が今までいかに守られた環境にいたのかということを考えてしまって。
ライオンキングに、地平線と広大な景色が広がってて、主人公はそれを崖から見てるみたいなシーンがあるじゃないですか。僕は崖の下を見たんですよ。地平線を見るひともいると思うんですけど、僕は崖の下が怖かったんです。一歩間違えたら落ちちゃうじゃんって。
────舞台関係の仕事に就いていかがでしたか?
営業をしてました。
僕が実際に取った案件でいうと、京都の保険組合に飛び込みで行って
「福利厚生のイベントなどを売っています。イベントをしたいっていうニーズあったらご連絡ください」
って言って。たまたまその保険組合が創立65周年だったこともあって、それの記念式典をやりたいと言われて。それで色々考えて、エベレスト最高齢登頂者の三浦雄一郎さんをゲストにお招きするイベントを企画しました。タイムスケジュールから、キャスティング、企画を担当していました。
この仕事は2年間していました。平日は営業をして、土日はイベントの応援に駆り出されるんですよ。なので、年休が50日を切っていて。3ヶ月休みがないこともありましたね。人間って長時間クツを脱がないと、足の裏がボロボロになって穴が開くんですよ。足が痛くて、ホテルのトイレで靴を脱いで、泣きながら求人サイトを見ていたこともありました。
1年目も2年目も同じ感じで終わっていったんですよ。それで3年目の春になった時に急にゾッとして。これ永遠に続くんだなと思って、3年目の5月に転職しました。
────転職先では何をされていたのですか?
人材系の仕事でした。その転職先に、現SASIのCOOである亮さんがいたっていうことですね。その会社には結果的に6年いました。営業だったんですけど、テレアポとか飛び込みとかはなくて、実際に契約が決まったところのコンサルティングみたいなことをしてましたね。アフターフォローみたいなことが多かったです。
1日200通くらいメールが来てましたね。見て消して、返してみたいなことをずっとしていたので、必然的にメール処理能力は高くなりました。タイピングとかはそんなに早くないんですけど、辞書登録でサボる技を身につけましたね(笑)
────SASIに転職するきっかけを教えてください。
6年も会社にいて居心地が良かった反面、30歳になる直前でこのままで良いのかって焦ったんですよ。ストレスも少なくて、家に帰ったら仕事のことを考えることなんてなかったんです。大してすごくないのに、年歴だけ重ねちゃって、平均年齢が若い会社だったのでお局さんみたいになってて…会社にも僕にもよくないなと思ったのがきっかけです。
それで、イベントを作るようなクリエイティブさがあって、今までの僕の経験が活かせそうな仕事はないかなと思って、亮さんに相談したらSASIを教えてくださったんです。
それで清人さんに初めて会って履歴書を渡した時に、「面接っぽいことをしたくないんだよね。外行こうよ」って言われて(笑)それでついていったら孝夫は何がしたいの?って言われて…気づいたらここにいます。
色んなことがありましたが、SASIにきて1年が経ちましたね。
────今後の展望・やりたいことなどはありますか?
ん〜なんですかね…独立しないとできないことがしたい!ってなったら独立するけど…
まだそんなことも考えてないですね。
SASIみたいなチームワークの会社がビジネスの世界でどうなっていくのかを見てみたい、というのですかね…。SASIって会社員じゃない人もたくさんいるじゃないですか。自分で会社をやっている人も、アルバイトの人も。立場が全然違うのに、ゆるく結束して、共通認識として面白いことをしようとしてて。すごく良いなって思うんです。ただそれを最後まで成し遂げられてる会社ってないと思うんです。
僕が同じ立場で効率的にやろうと思ったら、コンサルティングとかデザインの手法をマニュアル化して人数を増やして、あらゆるところに営業を飛ばして、ニーズを獲得して、手広く拡大して、全員の給料を一律にして…ってするんですよ。それをすると社員側は思考停止できるから、文句をいいながらもある程度仕事やり切ったら、土日の夜は気持ちよく寝れるんじゃないかなって思うんです。
朝起きた時に色々考えるのは良いんですけど、夜寝る時には考えたくないんですよ。そこのバランスをどうにかしたいっていうことが直近の課題です。
話がズレましたが、自分も主観的に動きながらSASIがどうなっていくのかを客観的に見ていきたいっていうのが自分のやりたいことですね。
茨城県ひたちなか市
平成6年11月に旧勝田市と旧那珂湊市が合併され、ひたちなか市に。 東京から約110kmの距離にあり、茨城県の中心からやや北東に位置し、100.23k㎡の面積を有する。 南は那珂川を隔てて県都水戸市と大洗町に接しており、西は常磐自動車道の通る那珂市、北は東海村に接しており、東は雄大な太平洋に面し、13kmの海岸線には、砂浜や磯が点在している。