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豊かに生きるために

幼少期に経験したことから、SASIで働くに至るまで。紆余曲折あったお話を伺いました。

今回は、SASIで経営企画 / 戦略総務として働く 科田小太郎 のルーツを探るインタビューです。

────小太郎さんはどのような幼少時代を過ごしましたか?

生まれは京都市で、比較的真ん中の方の出身です。観光地で言うと壬生寺とかが一番近かったです。新撰組とかが有名なところですね。

小さい時は、おしゃべりで “一丁噛み” って言われてました。あとは大人の人の話が好きでしたね。うちの家には、知らない人がよく来てて、朝起きた時や、夜ご飯食べる時に家族以外の人がいるんですよ(笑)父親や母親の友人が入れ替わり立ち替わりで、毎度あなたは誰 !?みたいな(笑)そういう環境でした。でも、なぜかその人たちの話を聞いてるのが好きだったんですよね。父と母としゃべったりしているのが面白くて、ずーっとみんなが話している場所にいたのを覚えてますね。それが幼少期の記憶かな…

────小学校ではどのように過ごしていましたか?

小学校の低学年までは幼稚園の時と変わらない感じで過ごしてましたね。それで小学4年生くらいからいじめられっ子になりました。その時、結構太ってたんですよ。あと、大人の人と話す機会が多かったので口が達者なところがあって、同級生から嫌がられていたんですよね。上靴を隠されたり、暴力的な行為も結構あったりして、親が学校に呼び出されることもありましたね。その時、困っていた僕に父親は「いじめられる側にも問題がある!!」って言ったんですよ。今のご時世ではあまり良くない発言ですけど(笑)
でもそれを父親に言われた時に、自分でなんとかしろよ!って言われたような気がして。もちろん色々助けてくれていたんだとは思うんですけど。
そこからは自分なりにいじめられない方法を考えて、いじめられることから抜けていきました。
具体的には、”いじめられてると自覚しないようにした”っていうことが大きかったですね。いじめる側には楽しいと思う感情があると思うんですよ。だから、その人たちが楽しくないように立ち振る舞えばいいんじゃないかな?と思って。”仕返しをする”っていうよりも、流す感じに近いですね。いじめられてるのになんでコイツこんな元気なの?って思われるように。それを試してみようと思ったのは結構鮮明に覚えています。そんなこともあって当時は辛い少年時代でしたね。

────中学校ではどのように過ごしていたのですか?

地元の中学へ進学しました。目立ちたがり屋だったので中学1年の時に、当時の文化委員長に憧れたのがきっかけで文化委員長をしていましたね。当時、憧れていた文化委員長は女性の方でとてもハキハキとした話し方でいわゆる“リーダー”って感じがして、かっこいいなと思ったのがきっかけですね。 

元々、運動が苦手で最初は美術クラブに入ったんですけど、やめてしまったんですよね。もうちょっと気軽に部活をしたいなと思ってゆる~い感じのバドミントンクラブに落ち着きました。

あとは…中学校の途中で、習い事としてダンスを始めたんです。
母親の知り合いにダンススタジオのオーナーさんがいるから見学に行ってみる?と言われて。それで行ってみたら楽しそうだなと思ったのが始めるきっかけですね。中学2年生の時から始めて、20代前半くらいまで続けていました。そう考えると10年くらいレッスンに通ったりイベントやショーケースに出たりしていましたね。
最初はダンスが上手くできなくて、レッスンに行くのが辛かったんですよ。でも友達ができたりとか発表会に出た時に、面白いなって感じて。人の前で踊ることとか、格好良くなれる、と思ったりして楽しくなっていきました。気づけば小学校時代に比べてかなり痩せましたね。成長期も相まって身長がグッと伸び、体形も顔もシュッとしました(笑)

────高校ではどのように過ごされていたのですか?

京都の高校に進学しました。全国でも名の知れたラグビーの強豪高校で、スクール・ウォーズというドラマのモデルになった高校です。受験当時、兄が美大の短大生で、姉が高校を中退していたこともあって、自分はなるべく親にお金をかけないようにしようと思っていたので高卒で就職をするつもりでしたから、中学の進路相談で先生へ相談したら、その工業高校を推薦してもらい運動も勉強もあまり出来ませんでしたが無事に入学できました。
ただ、あまり学生生活が楽しくなかったのか…ほぼ当時の記憶がないです(笑)

最初はテニス部に入りました。でも先輩とそりが合わず、1年の夏頃に辞めてしまいましたね。その時に、中学から一緒に入学した仲のいい友達がボート部にいて「面白いし、入らない?」って誘ってくれたので入部しました。でも、入ってみると本当に辛いしキツくて(笑)ラグビー部の影響があったのか、国体に出たりとかインターハイに出ているような人たちもいたので、ストイックな人が多かったんです。でも仲のいい友達と一緒だったので楽しかったですね。1年目に府の選抜選手に選ばれたり、2年目には近畿圏の大会で優勝もしました。毎日琵琶湖まで行って真っ暗になるまで練習をして、帰ってきたらダンスに行くっていう生活でしたね(笑)今考えるとめっちゃ元気でしたね。

高校ではそんなに主張をしないタイプでした。クラスの8割くらいはラグビー部とサッカー部なんですよ。日本代表のラグビー部の子がいたりとか、本当に体育会系で。ヘコヘコしたら3年間ずっと使いっぱしにされる!と感じたので、なんとか自分の地位を保つために威厳を維持するということはしていましたね(笑)

小学生から高校まで、そう考えると自分の性格として物事を俯瞰していて入り込まない感じがありましたね。ずっと斜に構えているんですよ(笑)中心にいたことはほぼないです。どこかしら根っこには目立ちたいっていう気持ちはあったような気はしますけどね。

────高校卒業後の進路はどのように決められたのですか?

高校卒業後は働こうと思っていたんですけど、色々な大学や専門学校のカタログを見ていた時に、ジュエリーをデザイン・制作する学校に目がとまったんです。「面白そう!!」と感じて、ダメ元でしたけど親に相談して、東京まで体験入学に行きました。

それで行ってみたら、とても面白くて、この学校に行きたいなと思ったんです。それを親に伝えたら「じゃあ行ってきたら !」と軽く言われて。こっちからしたら「え !?」って感じでしたね(笑)学費もかかるし、ましてや東京での一人暮らし。不安もあったけど、それでもいいと言ってくれているから入学することを決意しましたね。そこから、お金を貯めるためにボート部を退部しました。顧問の先生に伝えた時には「何考えてんねん!」ってとても怒られて。大喧嘩しましたね(笑)それでも辞める意思は揺らがなかったです。そこからはバイト三昧でした。荷物の仕分けの仕事をしたり、居酒屋で働いたり…。それで高校を卒業して、東京でのひとり暮らしが始まりました。

────専門学校はどうでしたか?

本当に楽しかったですね。学校って、勉強って、こんなに楽しいんだって初めて思いました。学校ではデザインと制作を中心にジュエリーと言われているものは全て作りましたね。本当に楽しかったです。ずっと夢中で制作していました。
卒業制作では、シューレースアクセサリー(スニーカーにつけるアクセサリー)を制作しました。
普通のシューレースアクセサリーって小さいプレートが貼ってあるくらいなんですけど、そのシューレースアクセサリーをダンスを踊る時の衣装として作れないかと思って。結果的には靴の1/2くらいの特大サイズになってしまって “付けて踊る” というよりは飾る方がメインになってましたね(笑)

────専門学校卒業後は何をされていたのですか?

学校の方針として、ジュエリーはファッションではなくて作品として表現するっていう考えが強い学校だったので、周りの多くの人はジュエリーの会社に就職していたんですね。でも僕は、ファッションとして、ジュエリーやアクセサリーを身につけたいなと思っていたのであまり魅力を感じなくて。なのでファッション関連の就職先を探したんですけど、内定はもらえなくて。卒業式になっても就職先が決まっていなくて困っていた時に、学校の先生が行きつけだった古着屋さんで「アルバイト募集してるから行ってみたら」って言われて。受けてみたら、そのまま採用になりアパレルの販売員をすることになりましたね。結局3年間くらいしていました。初めは渋谷の店舗だったんですけど、ジュエリーのことをやっていたという経歴が本社の方に響いて、ジュエリー部署の企画営業として引き抜いてもらいました。そこからしばらく働いていたんですけど、会社の経営が悪くなっていって、自主退社を募ったりしていたんですね。その時に、僕も精神的、肉体的に疲れていたりとか、京都に戻りたいなという風に思っていたので、良いタイミングだと思って、京都に戻ってきました。

家族写真

────京都に戻られてからは何をされていたのですか?

京都に戻ってきたら自分の職歴がハマるところがなかなか見つからず、また路頭に迷ってしまいました(笑)そんな時に、知り合いの飲食店オーナーさんが拾ってくれて、やりたい仕事につけるまで働かせてもらうことになりました。ただ結局、調理なんかも担当するようになったりして、気がついたら社員になってましたけどね(笑)

ただ本当はデザインやアパレルの仕事をしたいなぁ思っていた矢先に大阪の印刷の会社に勤めている友人からヘッドハンティングがあって、飲食店を円満退職し、印刷の会社に転職しました。
そこからは結構紆余曲折ありまして、何社か挟みまして…(笑)ふらふらせずに自分を安定させたいなと思ったんですよ。それで正社員で長く務められる仕事を探して前職のネクタイメーカーに入社しました。

────そこではどのようなお仕事をされていたのですか?

そこでは企画デザイン、小売店に向けてシーズンごとのネクタイの提案とデザインをしていましたね。「今こういうトレンドがきてるので〇〇〇はどうですか?」「△△△な新しい機能がついてるネクタイはどうですか?」とかそういう感じでしたね。
後は少し変わったところで言うと、アニメ関連の版権を使った商品を企画デザインしていました。今こういう流行っているアニメがあって、その権利が使えるので、こういうネクタイを作りませんか?っていう企画と営業をしていましたね。
結婚や子供が生まれたりということもあり、この会社には7年くらいいました。

────SASIに転職するきっかけを教えてください。

色々な要因はあるのですが。ネクタイの業界が低迷していく中で、自分の食い口が無くなってしまうと思ったんですね。会社の売り上げを伸ばしたりとか、業界として盛り上がることができないかなと思っていたんですけど、それがなかなかうまく行かず。1人の力でやっていくというのは難しいなと思ったんです。なので同じような志の人達と働きたいなという想いが芽生えていた、というのが大きかったですね。
家族のためにも、独立をするか転職をするかで悩んでいました。でも、僕にとって独立はリスクが高かったので、転職活動を決意しました。そんな中で、SASIに出会いました。

実際に働いてみても面白いなと思っています。元々は清人さんが面白いと思ってSASIに興味を持ったのですが、入ってみたらみんな面白いなって思いましたね。なんというか…こんなに個人が活き活きとしている組織があるんだと思いました。
仕事をやらされているという感じがなくて、みんな自発的に動けて、前向きな状態で。こんなところがあるんだと思ったのが最初の印象です。今でも変わっていないですね。

────今後の展望を教えてください。

今年の抱負でいうと、個人のブランディング・自分の名前で仕事をもらえるようになりたいというのがあります。個人のお仕事で言うとcravatta by renacnattaという、着物の生地をネクタイや紳士服雑貨にリメイクしているブランドのディレクターをやっているので、そこはもっと強化していきたいと思っています。
あとは、自分がどんな事業をしても協力してくれる人たちがいる環境を作りたいなと思っています。でもまずは自分のできることで成果をあげないといけないので、それをするという感じです。抽象的ですね(笑)
多分根本にあるのって、自分が豊かに生きていくための環境を作りたいということなんですね。それは金銭的な面であったり精神的なものだったり。そのためには何かに依存しないという風に思っていて。会社に依存しない、とか、パートナーに依存しないとか。もちろんある程度甘えますし、信頼もしていますけど、どんな状況であっても生きていけるようにしていきたいですね。血の繋がった存在であっても縁が切れることがあるということを経験していて、それを見た時に人の繋がりってなんなんだろうと思ったことがあるんです。それは何かしらのきっかけになっているかもしれないですね。だから常に相手と確かめ合い続けないといけないと思っています。

京都市

京都市は、京都府南部に位置する、京都府の府庁所在地で政令指定都市。 市内を賀茂川、桂川、宇治川などが流れる豊かな自然の中で、悠久の歴史に育まれた伝統に裏打ちされた文化や芸術を身近に感じ、その奥行きの深さを楽しむことのできるまち。