地方・ものづくりへの想い
芸術大学に在学時に感じた地方でのものづくりの可能性と楽しさ。どんな想いでSASIで働いているのかなど。いくつかの転機を軸にお話を伺いました。
今回は、SASIでデザイナーとして働く 中町勇輝 のルーツを探るインタビューです。
────勇輝さんはどのような幼少時代を過ごしましたか?
僕は高槻で生まれ育ちました。そして土遊びが好きな子供でしたね。僕が幼稚園の時って、ポケモンとかセーラームーンが流行っていて、真似をしている子とかが多かったんですけど、そういうのよりは裸足で外に出て土遊びをしていたような記憶があります。泥団子をひたすら作っていたんですけど、ガレージの裏とかにあるサラサラした砂を使って磨いたら綺麗になるんだ!とかそういう発見を楽しんでいましたね。あとは砂場に穴を2つ掘って、そこに水を流して繋げて遊んだりしていました。基本ずっと外や校庭にいたので、幼稚園内の記憶っていうのがあまりないんです。
あと、うちは母子家庭だったので日中は母親がパートに出ていたんです。なので幼稚園が終わった後は、近くに住んでいたおじいちゃんおばあちゃんの家で過ごしていた記憶もありますね。なのでおじいちゃんおばあちゃんっ子だと思います。
────元気いっぱいな幼少期だったのですね。小学校時代はどのような子供でしたか?
小学校の時は公文とサッカーをやっていました。公文は親に勧められて惰性で通っていたので宿題とかは全然やってなかったですね。あ、前に子供時代に公文に通っていたパートナーの方とも話をしていたんですけど、公文って100本ノックみたいにひたすら問題を解いていく感じなんですね。なので論理的思考とかが全然育たないよねって(笑)
あと…サッカーはずっとやっていましたね。小学校のチームなので、平日は学校終わってからの1、2時間くらい練習をして、土日はまるまる練習するって感じの生活を6年送っていました。元々サッカーが好きというわけではなかったんですけど、サッカー好きの友人に1年生の時に誘われて、やってみるかって感じで始めたんです。友達とも頻繁に会えるし、くらいの気持ちでした。
────中学高校時代はどのように過ごしていましたか?
中学高校は家から近くて、徒歩で学校に通っていたので買い食いとかの思い出がないんですよね。なので学校生活の記憶が強く残っています。あと、中学は1番ダラダラしていたんです。話が少し戻るんですけど、小学校の時に所属していたサッカーチームがとても強かったんですね。プロの下部組織に行ったりとか、全国大会に進む学校へ行く友人がチーム内にいたりしたので、そういう子達に囲まれて練習をしていると、勝つのが当たり前っていう感覚になっていて。だけどそれが中学になると、普通のクラブチームに入ったので、負ける試合の方が多くなってしまって、「何これ」ってなっちゃったんです。それで1回チームを辞めて、中学のサッカー部に入り直してダラダラしていましたね。
高校ではサッカーをやるつもりはなかったんです。だけどその時も、友人に「サッカー部入らへん?」って誘われて、結局入りましたね(笑)でも後悔したんです。なぜかって言うと、入学した時に部活紹介があったんですね。そこで中学より文化部の熱量がすごいなって感じたんです。軽音部とか見て、文化系の部活って楽しそう!と思ったんですけど、その時にはもうサッカー部に入ることが決まっていたので…まあ、なんだかんだサッカー部も楽しかったですけどね。
あと、昔から絵を描くのが好きなんです。だけど僕の通っていた中学高校では、文化系のことをしているとダサいみたいな風潮があったんですね。だから裏で色々作ったりしていたので、友人は僕がものを作るっていう印象はなかったと思います。
────美大に進学されたとお聞きしたのですが、その道を選んだ経緯を教えてください。
大学を選ぶ時にオープンキャンパスに行ったら、ほぼ高校みたいな空気で。また3、4年通うのしんどいし飽きたなって思ったんです。なので普通の大学に進むんじゃなくて、別のことがしたいって思ったのと、進学はしたいと思っていたので、色々探していた時に美大を見つけたんです。美大で何をするかっていうより、ここだったら何か楽しそうなことがありそうだなって思ったんですね。でもその美大を見つけたのがAOの締め切りの前日だったんです(笑)それでそこに行こうって衝動的に思って、翌日に届くように提出物を送った記憶があります。今思えば、あの時に考える時間があったら美大には進んでなかったかもしれないですね。
そして、芸術学部のイラストとグラフィックを学べるコースに進みました。自分が描いた絵をグラフィックにしたらこうなるんだとか、グラフィックにはこういう絵が使いやすいんだとか、両方のスキルを身につけていく感じでしたね。
だけど入学してから、ふわっとした考えだけで来てしまったなと後悔しました。みんな広告の話とか、このデザイナーに憧れて、とか自分の原体験の核心に迫るものを持ってきてる人が多かったんです。だけど僕は知識もなかったので知っているフリをしてましたね(笑)
────大学時代の印象に残っている経験はありますか?
大学時代にサークルに入っていたんです。京都って美大がいくつかあるので、そこで有志を組んで、福井県鯖江市に制作のプロジェクトに行こうってなったんですね。プロジェクトの趣旨としては、20年前程前に大洪水で災害が起きたことによって荒れてしまった、河和田地区という街でアート活動を行って、地域の人と喜びを分かち合おうというものでした。
大学2. 3年生はこのプロジェクトに捧げてましたね。学校がある期間は、授業後にミーティングをする感じだったのですが、夏休みなどの長期休みはフルで河和田地区に行ってひたすら制作に打ち込んでいましたね。
────具体的にどのようなプロジェクトだったのですか?
アートプロジェクトには色々なものがあったので組が分かれてたんです。例えば、街の素材を使って伝統工芸的なアート作品を作ったり、街の人と協力してイベントを開催したりとか。いくつかある中で僕が関わっていたのは、日本酒を作るプロジェクトでした。河和田地区って水がとても綺麗でオシドリが有名な地域なので、そういうのをモチーフにしようと。僕は日本酒が出来上がった段階から参加したんですけど、まだ全然売れてなかったので売れるにはどうしたらいいのかを考えるのが課題でした。それを2年間かけてやっていきましたね。あとは、年に1回あるお祭りに出店したりとか、そこに向けてのデザインツールを制作したりしていました。
これは僕の行っていた美大だけかもしれないけど、40点の人を60点に引き上げるっていう(赤点の人を合格ラインに持っていく)という感じの授業が多かったので、あまりそこからの伸び代がなくって。熱意のない人に合わせて授業が展開されていくから、そこから先を望んでいる人は学外の授業とかプロジェクトとかで学んでいくっていう感じでしたね。
あと…4年間毎日京都にいたので、土地の印象が強く残っていますね。京都の大学生は”京都の学生”であることを誇りに思っているんです。僕もなんですけど(笑)それが何でなのかは分からないですけど、刺激のある街なんだなあと思いますね。
────なぜSASIに就職されたのですか?
最初は東京のデザイン会社で働こうかなと思っていました。実際に内定をもらったのですが、改めてその会社を見てみたら、web制作はとても上手いけど、ブランディングってなるとweb制作だけでは全然上手くいかないんですね。webだけを前に出している会社でブランディングって本当にできるのかなって考えた時に、もう1度就職先を探そうという考えに至ったんです。それでどうせだったら地方で就職しようって思って、関西圏で会社を探している時にSASIを見つけたんです。それで面接してもらえませんか?っていうメールを送りました。あ、これは後々知ったんですけどその時のSASIって中途採用しかしていなかったんですね(笑)なのでだめかなと思ったんですけど、思いの丈は伝えなければと思って。
────強い想いがあってSASIに入られたのですね。元々デザインだけではなくブランディングに興味があったのですか?
僕は学生の頃から、ブランディングとかデザインの成功事例を見てても、結局そのパッケージやグラフィックしか載っていなくて、デザインが上手いのは分かるけど、そのデザインを作る行程ってどうだったんだろうとか、作った後のデザインは地域の人たちのためになっているのか、という部分が見えにくいなと思っていたんです。果たして、僕らが作っているものに意味があるんだろうかとも思っていました。あとは、どこまでが成功していると言えるんだろうと鯖江に行ったことで考えるようになりましたね。ものは出来上がったけど、これをどうしたらいいのか分からないとか、どの後どうしたらいいのかまでをきちんとカバーできる人になりたいなとぼんやり思っていました。だけど学生の時はそれをどうしたらいいのか知る術もないし…このモヤモヤを解消してくれる場所ってないのかなと思っている時に、SASIで清人さんと話をしてクリアになった感じがしたんです。そして、ここで働きたいという旨を伝えて、インターンとして働き始めました。
────勇輝さんが尊敬している人や人生の転機などがあったら教えて頂きたいです。
明確にこの人が自分に影響を与えた人っていうのはいないんですけど…僕は大学に入る前は勉強に熱中することってなかったんですね。面白くないなって思いながらやっていたんですけど、大学以降って自分の勉強したいことができるし、自分なりにコントロールできるから面白いなと思うようになりましたね。自分が振り切った方向に進学したことが1つの転機かなと思います。
僕、転機って何個かあるんです。もう1つの転機は、大学の友人に「勇輝って何考えてるか分からへん時があるねんな」って言われたことがあって。それは良い意味でも悪い意味でもなくて、普段何考えてるか分からないから教えてって言われたんですね。でもその時に何も答えられなくて(笑)確かに自分って何を考えてるんだろうって思ったと同時に、ぽけーっとしてたんだなと改めて気づいたんです。自分の考えを口にするとか、今これを考えているんだなって再認識するのって大事だなと思って。その友人は僕が尊敬している人なので、心に刺さったというのもありますね。自分がこういうことを考えてる、というのを口にしていこうと思ったのはその頃からですかね。
────私は勇輝さんとお話ししていると、知識が多い方だなと感じるんですが、どのように情報を集めているのですか?
僕は知識というか雑学みたいなのが多いんですけど…小学校の頃、図書館にあった「サーベルタイガーが現代に生きていたら」っていう本が好きだったんです。恐竜の昔の話とか好きだけど、勉強には繋がらないじゃないですか。でもそういうのが好きなんです、なので清人さんがよく話している10年後の未来の話とか、そういうのって今自分たちのクライアントに直接影響があるかと言われたらそうではないんですけど、ただ知るのが面白いという感じですね。そういう謎の雑学が好きなのは幼い頃からきているのかなって今話をしながら思っていました。
────今後の展望はありますか?
“独立”ですね。会社から離れたいとかではなくて、自分自身で仕事をする機会を増やしたいなと思っています。SASIに入ってから経営者の人と話していると、責任感も考えている量も違うなと感じたんです。会社員と経営者だったら細かい施策の話はできるけど、本当に相手の立場に立って言えているのかと考えたら、そうではない気がずっとしていて。自分の行っていることに責任感が乗り切らないところが多々あるなと。そういうことを考えた時に、痛い目を見てもいいから自分1人でやる機会を作りたいなと思うようになりましたね。これが最近の大きな目標です。自分がSASIという後ろ盾がある中で発言しているから、向こうは信頼してくださっているけど、僕はどこまで理解できているのかっていうことと、立場として相手と平等にしたいと思うので。大体3年以内で考えています。
あとは…地元の仕事をしてみたいというのはありますね。高槻にいるときは気づかなかったんですけど、意外と見た目が面白い街だなと思っていて。高槻って城下町っぽいところが残っているんですね。だけどそれとは対称的に、テントサウナの施設ができていたり、尼遺跡公園っていう大きな公園ができたり、そういう開発が進んでいる場所と城下町の空気が残っている場所があるんです。新しいものと古いものが混ざりあっている街になってきているなと思うので、そういう環境で仕事をしてみたいなというのはありますね。
福井県鯖江市
福井県の中央付近に位置し、北は福井市、南は越前市に隣接する人口約7万人のまちです。 眼鏡、繊維、漆器を三大地場産業とするものづくりや、オープンデータをはじめとしたIT技術の導入など、さまざまな特色を持つ自然豊かな人間味あふれるまちです。