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人生のひまつぶし

コピーライターという職業との出会いや、個人事業の「かたちラボ」10周年を機に新しく立ち上げたプロジェクトのお話などを伺いました。

今回は、SASIでコピーライター / ディレクターとして働く 田中裕一 のルーツを探るインタビューです。

────裕一さんはどのような幼少時代を過ごしましたか?

ぼくは出産予定日より出てくるのがだいぶ遅くて、帝王切開して、無理矢理外に出されたみたいで。とにかく社会に出たくない、社会人になりたくないよ、っていうスタンスだったんでしょうね、たぶん。今、39歳ですが、0歳の頃から何も変わっていないですね。いまだに社会に出たくない、自分を出したくないっていう。
で、人間デビュー後すぐに熱が40度くらい出たので、別の病院に搬送されたんですね。でも何か障がいが残ることなく、大きな病気やケガがなく健康に育ってきました。生まれた直後はこんな感じで波乱万丈でしたが、それ以降は特に大きなできごとはありません。デビューがピークでしたね。

出身は、山口県山陽小野田市です。合併する前は、厚狭(あさ)というまちの名前でした。そのまちは何が有名かというと、日本昔ばなしにもメジャーとインディーがあると思うのですが…その中間くらいの認知度の「三年寝太郎」というのがあるんですけど知っていますか?(ー知らないです…)あ、じゃあもうだめだ。
そんな三年寝太郎ですが、昔話なんですけど、彼は実在した人物でして。ベンチャー企業みたいなことをしていたんです。かつてyahooがモデムを配りまくって、インフラを整えたみたいな感じで。昔の厚狭は、田畑はあるのですが、水を貯めることができなくて堰(せき)を作る必要があるなとなって。それを作るためにはお金がいるじゃないですか。おとぎ話上では3年寝ていたってなっているんですけど、実際何をしていたかというと「計画」ですよね。SASIの仕事といっしょ。寝太郎は、3年間プランニングしていたらしいです。それで自分の親父に千石船(でっかい船)を買ってもらって、そこに新品の草鞋(ワラジ)を詰めたんですね。それを持って佐渡島に行ったんです。佐渡島って何があると思いますか?(ー…鬼ですか?)鬼がいるのは鬼ヶ島ですね。
佐渡島にはかつて金山があったんです。で、新品のワラジを大量に持っていって、金を掘っている人たちに、タダで新品の草鞋と交換してあげるよって言ったんです。そうしたらどうなると思いますか?(ーあ、草鞋に金がついているんですね!)そう、その草鞋を洗うとこびりついていた金がついているので、それで大量の金を得て、その堰を作ったらしいんですよね。でも経費とか考えたら、千石船を用意できた時点で、裕福だろって思うんですけど。寝太郎はプランナーとして、どうイノベーションを起こすかみたいなことを考えていた人なんですよね。そういう人が昔いたよっていうまちですね。

そんなイノベーターのいるまちに生まれてから大学に行くまで住んでいました。ナチュラルボーンSASIな人生を送っていますね、ぼくは。

────小学校時代はどのように過ごしていましたか?

小学生の時って、ボケの人たちが前の日に見たバラエティ番組のマネをしたりするんですね。その隣で「なんでだよ」とか言ってツッコミをしていたんです。目立ちたがり屋ではないんですが、ちやほやはされたいし…でもそういうボケを言う勇気とセンスがないなと思っていたので、隣で今のボケの解釈というか解説というか、そんなことをしていました。今も同じことしかしていません。
実はコピーライターという仕事もこれに近しいところがあると思っています。企業の価値を解釈して、違う言い方にして届けるとか、これはこの部分が面白い、とか。子どもの頃からクセになっていました。職能を身につけるには良かったのですが、そのせいでついついツッコまないといられなくなってしまいました。
そんなぼくなので、ボケてくれる人がいると生きがいというか、やりがいというか、ありがたいです。清人さんや康太さんとか、亮さんとかも面白いところやかわいいところを見つけてはつっこんでます。

────中学校ではどのように過ごしていたのですか?

母親が社会人リーグでセミプロになるくらい、ガッツリ卓球をやっていて。今年の8月末の話ですが、卓球の全国シニア大会が山口県に回ってきたらしくて、開催県なので2チーム選出されるらしいんですね。そこに選ばれているんですよ。それくらい卓球が好きでうまかったので。小学校の時はサッカー部だったんですけど、中学校はサッカー部がなかったんですね。なので母親が卓球をやっているからという理由で、卓球部に入りました。あとは、走ってましたね。足が早かったんです。それもあって、歪な部活動なんですけど、選抜陸上部みたいなのがあって。各部活から足の速い人が選ばれるみたいな感じで、なぜか卓球部が野球部より速くて選ばれるという。こんな感じでも多少の負けん気はあったので、いやいやではありましたけど、選抜の陸上部に参加してました。本当にいやでしたけどね。

小学校の頃から傾向はあったんですけど、中学校でより強くなって、高校・大学でもっと極みになっていったのは「友だちとの関係」を作らないことでした。今思うと、本当にやばいやつですね。
クラスの人間にはつっこんだり、なんか話はするんですけど、それは学校のみで。高校でも大学でも、誰かとつるみたいという気持ちがなかったんですよね。なので右肩下がりで友達は減少傾向になっていきます。人口減少社会を先駆けていましたね。

中学も高校もヤンキーみたいな人っているじゃないですか。普通の人もオタクみたいな人も、カーストが上な人とも、分け隔てなくしゃべってはいたんですね。でもその人たちとつるむかというと、遊びに呼ばれもしないし、こっちから歩みよったりもしなかったんです。だからあんまり人とつるんでこない人生だったんですよ。

────少し意外でした。高校時代はどのように過ごしていましたか?

中学校卒業後は、地元の高校に進学する人が多いんですけど、隣の市にある高校へ行きました。当時、越境入学をするには学年の人数の5%ほど市外の生徒を受け入れますよみたいなルールがあって。結構狭き門なんですけど、そこを受けたんですよ。知っている人がいない場所に行きたいっていう理由だけで。そこにがんばって入りましたね。

高校時代はより人口減少に拍車がかかり、よりエッジさが増しましたね。でも、いじめられるとかの経験も特になく、しゃべる人とはしゃべるし ヤンキーとも音楽の話をしたり。どこにも属してはなかったけど、つかず離れずな感じでしたね。

────大学では何を学ばれていたのですか?

大学は岡山の大学に進学しました。都会に出たいという願望が全くなくて。大学を選ぶ時は、推薦入試で入れるところで、臨床心理学、当時はざっくりと心理学を学びたいということで選びました。それで岡山にある四方山に囲まれた、通称「山奥大学」に入学しました(今は蔦屋書店があるらしいです!都会!)。心理学って言ったら、ユングやフロイトなんかを想像していたのですが、全然違いましたね。ぼくが入ったのは発達系の心理学部で、新設学部だったこともあって、教授人が発達系しかいないという歪な構造でしたね。ただ、あの大学で学べて良かったなと思うことは、今でいう自閉症とか発達障がいが専門なのですが、そこでの学びや経験が仕事で役に立っていることです。

────卒業後は何をされていたのですか?

なぜって感じなんですけど、結果だけ話すと、新卒でコピーライターになっているんですよね。一浪しましたとか、就職先が決まらなくて海外に行ってとか、波乱万丈なことがあったらよかったんですけど…そうじゃないんですよ。順調に新卒で就職しましたね。しかも15年続けている職業のキャリアスタートです。
同じ大学の人は福祉系の就職先に進む人が多かったですね。臨床心理士になるという道もあるのですが、大学院に行かないと資格が取れなくて。大学院か…ってなってしまったんです。それに加えて、福祉の仕事の手取りが12万円くらいって聞いて。あー、ってなりました。

当時、スカウトメールとかで先物取引の会社からの引き合いがめちゃめちゃきていたんですね。なぜかっていうと、すぐ人が辞めてしまうくらいブラックだから。誰でも受けたら通るよって言われて、受けてみたら通らないんですよ。それも含めていっぱい面接をしたのですが、1社も通らないんですよ。50社以上受けましたね。

でも何になりたいのかというのが、分からなかったんですよ。それでも企画営業みたいなのが近いのかと思って、就職先を探していたんです。簡単に言うと、今みたいな仕事がしたかったんですね。面白いことを考えて、それをかたちにするっていう。それを職業としてなんて呼ぶのかわからなかったんですよ。それで内定0社で、大学の4年のゴールデンウィークを過ぎて…その時期って周りは結構決まってるじゃないですか。どうしようって思っていた矢先に、たまたま「宣伝会議」っていう雑誌を見たんです。その雑誌の表紙が銀杏BOYZの峯田さんだったんですね。それでなんなんだろうと思ってパラパラ見ていたら、コピーライター養成講座っていうのが載っていたんです。
高校生の頃、「ほぼ日刊イトイ新聞(ほぼ日)」が面白いなと思ってちょこちょこ見ていたんですね。手帳とかも買っちゃったりして。でもその糸井さんがコピーライターだとは思わなかったんですよ。でもそのコピーライター育成講座っていう募集のところに、糸井さんの顔が載っていたんです。その瞬間、これだ!と。で、そこからはコピーライターになるために養成講座に通うというアリバイを親につきつけようと思ったんですよね。就職活動を休憩する理由になるぜ!と思って、秋から卒業までの半年間、週1で大阪まで通っていました。当時は岡山に住んでいたので。このことを親に説明して、がんばるので、つきましてはお金をくださいと。

────現在の裕一さんに繋がる大きなきっかけですね。その後はどうされていたのですか?

これがコピーライターを知るきっかけでしたね。それで就職活動しなきゃってなって、特にあてもなかったんですけど、年末に大阪に引っ越しました。大阪の方が就職活動しやすいなっていうのと、くるりが大阪城ホールでライブをするっていうことで、それに合わせたっていうのもありますね。いい判断だったと思います。

それで年越しから就職活動をがんばろうと思っていたのですが、コピーライターの未経験採用が全然なくて。そんな中、1社だけ新卒OKみたいな会社があったんです。そこに自分で書いたコピーを持っていったりして、その制作会社に入ることができたんですね。内定をもらったのがバレンタインだったんですよ。とんでもないバレンタインだなって感じなんですけど、卒業ギリギリのタイミングで。今でも覚えてます。大阪の阪急とJRの連絡橋のところで内定通知を受け取った記憶があります。
受け取った瞬間、正直ちょろいなと思ったんですよ(笑)コピーライターってちょろいなって。それがコピーライターのスタートです。

────その後どのような流れで現在の「かたちラボ」を設立されたのですか?

かたちラボを立ち上げるまでに、3社渡り歩きました。2012年の10月1日から、今のかたちラボという屋号で活動を始めたんですけど、2012年の9月中旬に社長から「辞めてもらいたい」って言われたんですね。でもあまり驚かなかったんですよ。なんか最近仕事やらずに帰ってるなって、2ヶ月くらい思っていて(笑)
今日やることないですか?って聞いても、「ないです」って言われたりして。そりゃそうなりますよね。

独立心はなかったんですよ。なので、良いきっかけになったんですね。ぼくが自分で道を作るんじゃなくて、勝手に道を作られたというか。
辞めたら、今月分の給料に加えてもう2ヶ月分くれるというし、失業保険もいただけるので。かたちラボっていう屋号とロゴだけは、前の制作会社の後輩アートディレクターに作ってもらっていたので。そんなこんなで、2012年10月1日からかたちラボとして活動しています。ちなみに、2022年10月1日をもちまして、まるっと10年です。

────10年はすごいですね…SASIと同い年なんですね!

起業という感覚はなかったですけどね。のんべんだらりとやっていきたいし。当時は結婚もしていないので、なんとなくで生きてましたね。2013年の年明けくらいから、色々なことに巻き込まれていくんですが、そこまでの3ヶ月間、YouTubeしか見ていなかったですね。ゲームセンターCXというよゐこの有野さんのゲーム実況みたいなものを日本酒を飲みながらずっと見ていました。その後のリハビリが大変でしたけどね(笑)何も考えられないですからね。本当に思考が止まるし、おすすめしないです。ちゃんと仕事した方がいいですね。

余談ですが、コピーライターは性に合うんだろうなって思いますね。ただ、20代の頃、よく先輩からはディレクターの方が向いてるって言われていました。こころさんもこれから「◯◯の方が向いている」とか言われると思うんですけどね、それは間に受けた方がいいですよ。先輩や上の人が自分の役立ち方というか取説を教えてくれているな、と今にして思います。自分をそういう風に使ってもらえるんだなと思うので、そこは頑固になったらだめだなと。自分は遠回りしてよかったと思う部分もあるんですけど、あの時に先輩にディレクターに向いているって言われた時にそうしていたら、もっとブレイクしていたかもしれないと思っていて。

────自分にもとても当てはまるような気がして、とても刺さります…(笑)

「コピーライター」がアイデンティティかもしれないです。学生時代って、自分って何者でもない中で、自分を名乗ることができる肩書きをつけてもらったんですね。なんかそれがよかったんですよ。自分を説明するものができたという喜びはいまだにありますね。親は今でもお前は何してんだって理解されてないんですけど(笑)でもいい肩書きだなと思いますね。

あ、そうだ。名刺って見せたことありましたっけ?(ーないです..!)
これが名刺です。「形」っていうロゴマークですが、目があるじゃないですか。これはスイミーっていうお話が元になっていて。スイミーって知っていますか?(ー知ってます!)

スイミーを知っている人に中々出会えないので、とてもうれしいですね。

最後にいた会社にいた時、暇だったので、近くの本屋さんに入り浸っていたんですね。レオ・レオニっていう人が作者なんですけど、彼は絵本作家ですが、活字の本を一冊だけ書いているんですね。『平行植物』っていう本なんですけど、それをたまたま読んで。で、レオ・レオニってスイミーの作者だったよなと思って、その足で絵本コーナーに行って、スイミーを読んだんですね。それを読んだときに、これが自分がやりたいこととか、やるべきことだ!って。事業計画書というか、それが全ページで展開されているなと思いました。なので、かたちラボの理念もロゴのモチーフもスイミーが元になっています。
たまに、かたちラボを法人化しないのかって聞かれるんですけど、それは明確なんですよ。スイミーが法人化しないから。あいつは、個人事業主だぞって。スイミーの話って何が肝かって言うと、大きな魚を撃退したところで終わるじゃないですか。その後、新しいファミリーと幸せに暮らしましたではなくて。その潔さが良いなと思っていて。

────潔さですか…確かにスイミーって「幸せに暮らしました」っていう終わりではないですね。

あれはデザイン経営と同じだと思っているんですけど。デザイン経営の学びとしても、スイミーはおすすめだなと思います。
レオ・レオニって元々デザイナーなんですよ。グラフィックデザイナーの人間で、途中から絵本作家になっているんですね。
スイミーは絵本の中で、赤い魚たちを1匹ずつ指示を出して、お前はここ、お前はそこって。で、「ぼくが目になる」って言うんですね。それは体が黒いからって理由で。スイミーをはじめとした小さい魚たちをレイアウトして大きい魚をデザインするんですが、その点で自分の仕事、特にかたちラボの仕事はスイミーと似ていると思います。
ただ全体像を把握していると、目にならない赤い魚の立場でもスイミーに言われる前に自ら進んで的確に役割をまっとうできます。清人さんとか康太さんとかと仕事をする時でも、ここにいてこれをやれば良いんでしょって先んじて仕掛けておく、それも大事な仕事だなと思っています。なので、「ぼくが目になるし、ならなくてもいい。むしろ、まかせた」これが今の理念ですね。

────今後の展望・やりたいことなどはありますか?

やりたいことの話でいうと、まるっと10年経ったということで、自分の方で何かしら事業をやっていこうかなと思っていまして。詳しい内容はWEBサイトをご覧いただければと思うのですが、101010(トトト)というレーベルを立ち上げます。

101010

かたちラボは1人だったんですよ。スイミーだから。でも勝手に名乗り始めた人が1人いて、2人になったんですね。うちのカミさんです。WEBデザイナーなので、一緒に仕事をやっていますね。
生き延びるために、何か仕掛けておかないといけないなって。SASIにいるとよく聞くと思うのですが、両利きの経営っていうじゃないですか。あれは正しいなと思うんです。特にこの業界は、現状維持だと右肩下がりになる傾向があるので。仕事がないと腕も鈍るし、どうにかして車輪を回さないといけないなと。

永遠なる展望でいうと、生涯現役。死ぬまでやりたいっていうよりも、ひまつぶしです。(ー康太さんも仰ってました!)
うちの親父は宝くじをよく買っていたんですね。「当たったら仕事やめるの?」って聞いたら「やめない」って言っていて。「なんでやめないの?」って聞いたら、「ひまになるから」って。それはなんか、すごく共感しましたね。ぼくも親父も、仕事が最高のひまつぶしです。あとはそのひまつぶしに付き合ってくれる誰かといっしょにやることは、こだわり続けたいです。

今のところ、かたちラボを始めて出会う人にはほとんど良い人しかいないです。学生時代と比べると圧倒的な増加率!って感じです。将来ずっとこんな感じが続けばいいなって思いますね。こんな感じを続けていくのも、実はけっこう大変なので適度にがんばります。いいタイミングでいい振り返りができ、お話聞いていただきありがとうございました!

山口県山陽小野田市

山陽小野田市は、山口県南西部にある市。宇部都市圏に属するとともに、福岡県北九州市との関係も深く関門都市圏の一部でもある。 市名は合併前の旧市町名を並べたもの。