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新天地・松江にて

幼少時代の話や、昨年オープンしたBookcafe DOOR松江店で働く中で、日々感じることなどを伺いました。

今回は、Bookcafe DOOR宝塚店でオープン当初からカフェスタッフとして働き、現在はBookcafe DOOR松江店でストアマネージャーとして働く 久保田洋平 のルーツを探るインタビューです。

────洋平さんはどのような幼少時代を過ごしましたか?

出身は兵庫県の西宮市です。 4人兄弟の末っ子として生まれました。兄弟と年齢がとても離れていて、1番年が近い姉でも10歳以上離れているので、その姉との記憶はあるんですけどその上の2人との記憶はほぼないです。記憶があやふやなまま、阪神淡路大震災で被災するんですね。西宮の家屋は2階建てだったんですけど、1階だけになってしまうほど完全に潰れてしまって。それで、大阪府の豊中市に引っ越しました。それが幼稚園の頃で、その後は転々としていましたね。豊中で1年過ごした後は、兵庫県の夙川に2年間住んでいました。転勤族というわけではなかったですけど、幼稚園で友達ができても、1・2年で離れてしまうので、人との距離感がよく分からなくなってしまったのを覚えています。その後、小学校に上がると同時に西宮に戻ってきた感じですね。それもめっちゃ嫌だったんですよ。友達の作り方が分からなくて、入学式が嫌で嫌でしょうがなかった記憶があります。

────今の洋平さんのコミュニケーション力の高さからは想像できないです!小・中学校はどのように過ごしていましたか?

小学校では野球のクラブチームに入っていました。野球をしていたのは2年生から4年生くらいまでだったかな?本当に元気いっぱいで、勉強ができなくて遊ぶのが大好きな「 the小学生」って感じでしたね(笑)
元々1つのことにのめり込むタイプではないので、中学では野球ではなくテニス部に入りました。やってみたいことにはとりあえずチャレンジしたいって感じ。でもテニス部も2年生の時に顧問の先生が変わったことがきっかけで退部してしまいましたね。

あ、クラブを中退した男の子の集まりみたいなものがあったんです。俗に言うイケてないグループなんですけど(笑)学校が終わったら図書館に集合して、誰かの家に行って…みたいなことをよくしてましたね。あれを青春と呼んでいいのかは分からないけど、楽しかった記憶があります。

────高校時代はどのような学生生活でしたか?

高校も地元の学校に進みましたね。高校では野球でもテニスでもなくアメリカンフットボールをしていました。仲のいい友達が入ったから、という軽い理由で入部して痛い目を見ましたね(笑)でもアメフトは3年間続けました。先輩が全国大会に行くくらい強かったので、3年の間に数プレー出た、くらいの記憶です。毎日、部活部活の生活でしたね。でも、“チームの喜び”みたいなものをあまり感じなかったんです。自分が関与していた試合で負けたら悔しかったけど、関与してない場合は他人事みたいな感覚がありましたね。

あとは、元々コミュニケーションが苦手なタイプで…中学生の時は人の目をみて話せないような子だったんです。高校もそんな感じで過ごしていて、変わりたいなと思ったので、高校生が終わる3月から自分の好きだった洋服屋さんに飛び込みで「バイト募集してますか」って声をかけて。そこからはもう荒療治ですね(笑)その店はお客さんに喋りかけないといけない店だったので、そこで馴れ馴れしさみたいなのを身につけましたね。

────その後ファッションを学んだと伺ったのですが、その時のことを教えてください。

大学ではファッションを学びたくて、専門的に学べる大学に進みました。
入学後、コースを選択する前に全員デザインを学ぶんですね。そこで自分はデザインというものには、あまり向いてないなと思いまして…。で、2年目に僕はファッションビジネスというコースを選択しました。ショップの経営とか、服の歴史とか、色彩、カラーコーディネートなどを学びました。

当時の僕は、人と同じということにとても違和感を感じていた時だったんですね。何をしたらいいのか分からないけど、ただ漠然と人と違う道に進んでみたいという理由で、ファッションの学校に進んだんです。その甲斐あって学校にも確固たる自分の芯を持っている人もいたし、僕みたいに漠然と何かしらの変化を求めて、みたいな人もいたので、すごく刺激のある学生生活でしたね。今思えば、人生のきっかけの1つだったなと思います。

────大学卒業後は何をされていたのですか?

踏み込んでファッションを学んだからこそ自分に合っていないみたいなこともわかったりして…あの頃の自分には販売員として生きる道みたいなものは全然考えられなかったですね。
卒業してからは、アパレル店員と居酒屋さんのキャッチをしてました。キャッチは結構長くやってましたね。その当時仲の良かった友達に誘ってもらったっていうのもあったけど、キャッチって意外と奥が深くて。居酒屋のキャッチってテリトリーがとても厳しく決められていて、この歩道より先では声をかけたらいけないとか、歩きながら何m以上追走しては行けないみたいなルールもありましたね。そんな中で、いかに立ち止まってもらってもらえるかっていう感じでした。何かの本で、「出世したければエレベーターの中で重役と居合わせた時に、重役が降りる階に着くまでに自分をプレゼンしよう」というのを読んだんです。それと少し似ているなと思いましたし、面白かったなと思います。

────その後は何か他のことをしたりしたのですか?

本当にチャランポランに生きていたんですね。昼に寝て、夜に活動してっていう完全な昼夜逆転生活を送っていて。その時西宮の実家に住んでいたんですけど、ある日父親が電話で「医者曰くあと1年らしいわ」と話している声が聞こえたんです。驚いて聞いてみると、癌だということを聞かされて。当時の僕はそれを受け入れることができなかったんです。兄弟みんなが「お父さんの残りの1年を良いものにしようね」と言ってる時に、僕はオーストラリアに行ってしまったんです。もう逃げたかったんですよね。逃げても何も変わらないのは分かっていたのに、その光景が見えないところに行ってしまったんです。何も考えずにチケットを取りましたね。オーストラリアの人は海外の人に優しいと聞いたので、その情報だけを頼りに行きました。

────オーストラリアに行かれてから、BookcafeDOORで働くことになる経緯を教えてください。

オーストラリアでは畑仕事とか、比較的日本人を雇用してくれやすいジャパニーズレストランで働いていました。ほぼ日雇いみたいな感じでしたね。父や家族から逃げてオーストラリアに行ったのに、どうしても父親に会いたくなって、結局2ヶ月半程で帰国したんです。
日本はその時11月くらいで、オーストラリアは真夏で季節が真逆なんですね。だから父の病院に日焼けした僕がお見舞いに行って、父にすごく笑われて(笑)とりあえず父に謝って、兄弟で支え合っていけるように頑張るということを伝えましたね。でも父親は、オーストラリアでもどこでも行け行けって感じで、何かあったら電話して来いくらいのスタンスだったので少し救われましたね。

そしてその後にBookcafe DOORで働き始めました。それは、飲食店・オープニング・家から近い、という理由だけで応募しましたね(笑)

────洋平さんといえば“カレー”ですがいつから作り始めたのですか?

DOORで働き出して3、4ヶ月でカレーをメニュー化しました。実はそれまで作ったことなかったんです(笑)カレー屋さんをやりたいという気持ちは当時もあったんですけど、自分で作ったことはなかったので、ここで練習させてもらおうくらいの気持ちでした。最初にカレーをあれこれ考えているときは、当時のカフェの社員さんが寄り添ってくれて、伴走してくれていましたね。
当時はスパイスをたくさん嗅いでて、ターメリックの匂いしかしなくなった時もありました(笑)

DOORで働き出して1年くらい経った頃に、縁あって箕面のお店で僕のカレーを買い取ってくれることになったんです。そして箕面にあるお店を間借りして土日限定のカレー屋さんを始めさせてもらいました。そのお店を半年くらいしてましたね。お店をやれたことは本当に嬉しかったです。
ですが、新型コロナウイルスによる1回目の緊急事態宣言の時に、間借りしている大元のところが飲食の営業を控えたいということで土日のカレー屋さんは終了してしまいました。

久保田特製スパイスカレー

────昨年から松江に移住されましたが、いかがですか?

とても良いところですよ。人と人との関わり方が全然違うんです。例えば…こころちゃんは仁川駅からDOORに来るまでの間にあるコーヒー屋さんのマスターがどういう人で、なんであそこでお店をやっているかとか知ってる? (────いえ、知らないです…)

でしょ?情報量の差はあるけど、松江の人ってそういうことを把握しているんですよ。その人がどういう人なのか分かってるみたいな。この前も全然知らない人から、お兄さんの自転車って水色ですよねって言われて(笑)だいぶ繋がりが強いなと思いますね。あとは、文化・伝統・人柄を大事にしているなと感じます。なおかつ“城下町という誇り”を持ち合わせた県民性かなと思います。
人付き合いが好きな僕からしたらとても楽しい街ですね。松江に行ってから、兵庫に帰ると人が多いなって思うようになりました。

────元気に過ごされているようで良かったです!今後の展望などはありますか?

松江に行ってからも、カレー屋さんをやりたいという想いはあって。でも、働いて色々な経験をすればするほどカレー屋さんとして生計を立てていくのって本当に難しいことだなっていうのが見えてきたんです。
Bookcafe DOORって人と人が繋がる場じゃないですか。それがSASIの場合は、事業者の方だったり経営者の方だったりって感じなんですけど、僕は地元の方とのコミュニケーションの場であり、何か力になれることがあるのではないかと考えています。なので 「◯◯×カレー」 を見出したいなと思っています。

僕はSASIに入らなかったら松江に来ることはなかっただろうなと思っていて。松江が何県にあるのかも知らずに死んでいってたかもしれないと思います。でも今、松江で友達もできて、SASIに入らなかったらこの人たちと出会うことはなかったのかな、と思ったらすごく勿体無いことのような気がしたんです。実際に松江のような街って数え切れないほどあるじゃないですか。その街それぞれに友達になれるかもしれない人がたくさんいて、困っている人がたくさんいて…って思った時に、その悩みを解決できる糸口を自分が持っているかもしれないと考えるようになりましたね。自分のお店を出す場所っていうのは門戸厄神(兵庫県西宮市)と決めているんですが、松江に来たことによって、松江みたいな街に行って、その地場の方とコミュニケーションをとってみたいなと思い始めています。

あとは、今の自分からSASIを抜き取った時に本当に何も残らないなと思ってるんです。ただの調子のいい30代前半のおっちゃんになってしまうなと…。なので今は勉強をしようと思って本をたくさん買いましたね(笑)今から読んでいこうと思います。

────カレー屋さんオープンしたら必ず食べに行きますね!あと、今も宝塚店には洋平さんに会いに来られるお客様がいらっしゃるんですよ。

え!それは本当に嬉しいですね。松江に残ろうと思った一つの理由としても、もっと地元の方と繋がりたいなと思ったっていうのが大きいんです。それで清人さんに頭を下げて、松江にいる期間を延ばさせてもらいました。だからそういうお客様がいらっしゃるというのは嬉しいです。

SASIが掲げる図に、各地のクライアントさんと関わり合って、そのクライアントさん同士が繋がっていくっていうのがあるじゃないですか。それってとても素敵だなとも思うし、必要なことだと思っていて。自分のフィルターみたいなものはSASIとは違うけど、久保田洋平としてのフィルターを通して輪を作って、それを繋げるみたいなことをやってみたいなと思っています。

島根県松江市

松江市北部には大山隠岐国立公園に指定されている島根半島の景観美しいリアス式海岸、南部には中国山地の緑豊かな山々を有する自然豊かな地域です。 また、中央部には水鳥の生息地として有名な宍道湖があり、国際的に重要なラムサール条約湿地に登録されています。