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人との縁を大切に

幼少期から今に至るまでの紆余曲折な話から、感銘を受けた旅行の話、今後の壮大な展望について伺いました。

今回は、SASIでCDOとして働く 二村康太 のルーツを探るインタビューです。

────康太さんはどのような幼少時代を過ごしましたか?

名古屋市中村区で生まれました。昔から住んでいる人が多い土地で、新しいものがあまり入ってこないような街でした。
小学校の時は、目立ちたがりだけど気が弱い性格でしたね(笑)学級委員や生徒会長をやったり…中心的な立ち位置にいたけど、周囲からはいつもいじられていました。
今でも周りからいじられることが多いので、この頃からあまり変わってないように感じます。

────中学校ではどのように過ごしていましたか?

通っていた中学校はやんちゃな人が多かったんですね。校内も落書きだらけで窓ガラスも割れてて…みたいな感じでした。
自分は小心者なので怖かったっていうのもあるんですけど、天邪鬼な性格なので、学帽をきちんと被って、学ランのカラーも外さずに付けていて、学生鞄を持って通学していたんです。そんな人は周りに1人もいなかったですね。こんな環境だからこそ、真面目にしてやろうと思って(笑)みんなが勉強しないから成績もよくて、上位2.3番くらいに常にいましたね。

部活は剣道部でした。剣道を選んだ理由は、小学校の時に野球をやっていたんですけど、周りもみんな野球をしていて、敵が多いなと思って。剣道は小学校にクラブが無かったので、みんな同じスタートラインだなと思って選びました。
毎日部活中心の生活でしたね。高校受験のために塾に通っていたんですけど、それも辞めて。学校が終わってから19時まで部活して、その後道場に行って練習するみたいなこともしていましたね。土日も朝から晩まで剣道づけの日々でした。

僕が通っていた中学校には経験者がいなくて、全員初心者だったんですけど、名古屋市で優勝することができたんです。その時に練習は嘘をつかないということを学びましたね。
そのチームのレギュラーだったので高校の推薦権がもらえた、という感じです。

────剣道をされていたんですね!高校ではどのように過ごしていましたか?

高校では剣道部の主将になりましたね。主将になるキャラっているでしょ?(笑)ああいうタイプだったんですよ。
学校生活では、やんちゃになりたかったけど、ビビりなのでなりきれなかったですね。一通り悪振りたかったけど、本当に悪い人に目つけられたら嫌だなって思って(笑)

小学校の頃から洋服には多少気を使っていたんですけど、高校生になった時に改めて興味が出始めたんです。当時はメンズノンノを読んで、モード系の服を着ていました。だけどあまりモテなくて(笑)ヒップホップが流行り出してB-boyが出始めた頃だったというのと、モテたいという気持ちで、そっちの方に大幅な方向転換をしましたね(笑)その流れで「裏原系」というジャンルにハマって、バイト代を全部つぎ込んでいました。プレミアが付いたりすることが不思議で興味を持っていって、好きなアーティストとかがそういう服をきていたこともあって、どんどんのめり込んでいきましたね。

通っていた高校は優等生が多い学校だったので、念願のちょっと目立つ存在にはなれました(笑)

────その後は大学に進学されたと伺ったのですが、その時のお話をお聞かせください。

僕はミーハーなので、キラキラしてそうっていう理由だけで青山学院大学に行きたいなと思っていたんですね。でも調べていくと、青学は2年生まで厚木っていう田舎のキャンパスに通わないといけないということを知って。それで、街中にずっと入れる大学はないかなと思って探している時に立教大学を見つけたんです。
でも通っていた高校から立教大学の指定校推薦の枠がなかったんです。近所の人に聞いても、長嶋茂雄の大学でしょ?くらいの感じで。

指定校の枠も無くて、周りにもあまり知られていなかったので「自分が指定校の枠を開けてやろう」くらいの気持ちでめちゃめちゃ勉強しました。
それで高3の夏に部活が終わってから、本当に真剣に勉強して合格しました。それで本当に学校に指定校の枠ができたんです。あ、本当にできるんだって思いましたね(笑)

────卒業後は何をされていたんですか?

受験時代、ご飯とお風呂以外ずっと勉強して、遊びも断って…という生活をしていたので、合格したのがゴールみたいになってしまって。大学時代は本当に何もしていなかったんです。あの時もう少しちゃんとしていたら、もっと早くに良い仕事ができていたかもって思っています。なので就活の時期が近づいても、就職してサラリーマンになりたくないな〜、でも就職しないとな〜って、思っていましたね。

それで就活を早々にやめて、実家に戻ってお金を貯めてデザイン系の専門学校に通いだしました。学校は週に1回だけだったので、大手アパレル企業が運営する雑貨屋さんでバイトをしていたんです。でもそこの先輩に僕の洋服に関して色々言われるようになって。それで合わないなと思って、2ヶ月くらいで辞めたんです。その時はけちょんけちょんに言われましたけどね(笑)その後は、ストリートファッション雑誌のWEB編集部で働いていました。
でも生活が苦しくて、その時は消費者金融からお金を借りていたりもしていましたね。このバイトは8ヶ月くらい続けました。

────専門学校に行かれたんですね!学校では何を専門に学ばれたのですか?

デザインの学校に行ったのは、僕自身アニメーションやミュージックビデオが好きで、それの監督になりたかったからなんです。なので本当は映像制作を学びたかったんですね。だけど当時はマシンのスペックが高くないと映像は作れなくて。それでFlashという、当時WEBブラウザで閲覧するためのアニメーションを制作するアプリケーションで楽しんで作っていたら、それはWEBのツールだったということを後から知って、WEBのコースに進みました。

それで卒業制作で優秀作品に選ばれたんです。部門に分かれていたんですけど、人数の少ない部門に出したら優秀賞取れるかも!と思って、やってみたら見事(笑)
その後、作品をプレゼンする機会があったんですけど、デザイン会社の方に声をかけていただいて。それでバイトをしていたんですが、面白くなくて2週間で辞めたんです。

────その後はどうされていたのですか?

就職活動しないとな〜と思って、当時面白そうな仕事をしていた制作会社に入りました。でも落とし穴があったんです。給料が月収12万で+インセンティブっていう仕組みだったんですけど、インセンティブが振り込まれないという問題が社内で起きていて。良くないとは思っていたけど、楽しいし、良い仕事があるしな〜と思って続けていたんですね。

ここで少し話が戻るんですけど、雑貨屋を辞める時に、その店舗の上の階にある会社の方に「君辞めるらしいじゃん。今何をしているの?」って言われて、デザインの勉強してます!って言ったら「じゃあ僕の名刺作ってよ」って言われて(笑)
それで納品したらとても気に入ってくれたんですね。その方の奥様がIT系の会社に勤められていて、今求人しているけどどう?って声をかけて下さったんです。それでその会社のことを調べたら、結構大きい会社で。借金も返せるし、色々吸収したいなと思って、制作会社を辞めて、その会社に入社しました。当時23歳でしたね。

────すごい縁ですね…。その会社にいた時のお話をお聞きしたいです。

そう、すごい縁ですよね。だから縁はすごく大切にしてるんです。何か頼まれても適当に断るんじゃなくて、頑張ってやってみますっていう風に一回落とし込んでいますね。これはポリシーです。何かに繋がる可能性があるし、今までもそういう風に生きてきたなって改めて思います。

ITの会社は、最初から3年で辞めようと思っていたんです。その時は辞め癖があったので、入って1週間で面白くないなと思って、辞めたくなったんです。でも3ヶ月くらいは様子を見ようと思っていた時に、面白い先輩と出会って。その人と遊ぶようになってから、輪が広がって、会社が居心地の良い場所になっていったんです。一方で、獲得系の広告とかポータルサイトとかを中心に制作していて、いわゆる「カッコイイデザイン」のポートフォリオができなくて、こんなところで終わりたくないなと思うようになったんです。
それで部署移動してみたりとかしたんですけど、自分の求めていたものはなかったんですね。それで転職しようと思って、有名どころにポートフォリオを送ったりしてみたけど、返事がなくて。それで自分の作っていたものって、世間から見たらそういう評価なんだなと思いましたね。

───その後転職されたんですか?

その時25歳だったんですけど、遅ればせながら人生で初めて海外旅行に行ったんです。現地の街を歩いている時に、みんな英語しか喋ってないじゃん!って感動して(笑)その後も、学生時代の友人が留学しているロンドンに遊びに行ったりしていたんです。それが本当に楽しくて。
帰ってきてから「留学行きたいので会社辞めます!」って上司に伝えました。厳しいことを色々言われましたけど、意思は全く変わらず会社を辞めました。

どこに行こうかな〜と考えている時に、自分の好きな北欧デザインを実際に見てみたいなと思ったんですね。
その時に中学の友達がイタリアに料理の修行に行っていることが分かって、連絡を取って一緒に北欧旅行に行くことになったんです。
その時に訪れたストックホルムがすごく気に入って1週間くらい滞在したんです。それでスウェーデンに留学しようと思って、スウェーデン語を勉強しに行って、スウェーデンの広告の学校にポートフォリオを送ったりしました。期待に胸を膨らませていたんですけど、落ちてしまって。別の全寮制のデザイン学校があったので、そこに応募して行くことが決まりました。それでビザを取ろうと準備を進めている時に、パニック障害になってしまったんです。

────そうだったんですね。その後はどうされていたんですか?

それで実家に強制送還されて、留学も行けず、名古屋に戻ることになりました。
当時は本当にしんどくて家を出れなくなってしまって。朝が来るたびに、また朝がきたって思うくらい気持ちも落ちていて。そんな生活を半年くらいしていた時に、働いている方が気が紛れて良いかもって思って。名古屋のデザイン会社と付き合いがある先輩がいたので、その方に紹介してもらって、業務委託として2年くらい働きました。
そこで、先輩に「デザイン全然上手くないじゃん」って言われて。何が悪いんだろうって考えた結果、文字組みが汚いんだなって気付いたんです。それで文字組みの本で理論を学んで、それ通りにやってみたら良い感じにまとまったんです。それでやっぱり理屈ってあるんだなと思いましたね。

それから、その先輩も認めてくれるようになって、結構デザインが上手くなったように思います。でも世に出るような仕事があまりなくて、それが不満になって行ったんです。それで半分逃げるみたいな感じで「ディレクターやってみたいです」って言ったんですね。それでやってみた時に、ディレクターの先輩がすごい細かい人で。何度も何度も修正が入って友人と遊びに行けない、ということが続いたんです。それで会社に行くのも嫌になっていってしまって。それで給料下がっても良いからデザイナーに戻してくださいって言いましたね。今思えば逃げまくってるなって思うけど(笑)

────その後フリーランスで働かれていたとお聞きしたのですが、その時のことをお聞きしたいです。

だんだん自分の病気が良くなってきていたこともあって、東京でデザインをしたいと思ったんですね。それで、会社を辞めました。東京で就職をするわけではなかったので、フリーランスとしてやっていくことにしました。

名古屋にいる時からIT会社時代の先輩に「フリーになりました」っていうメールを送っていたんですね。そのおかげで少しずつ仕事をもらえるようになっていきました。それで、意外とやっていけるなと思っていたんですけど、昼は営業、夜は制作…みたいな生活サイクルが段々しんどくなっていって。ちょうどその時にIT会社の時の同僚から誘われて制作会社をやることになりました。当時29歳とかでしたね。結局10年間その制作会社をやっていました。現在は「経営のための創造社」という会社をしています。
こう考えると紆余曲折ありましたね…

────SASIに関わることになったきっかけを教えていただきたいです。

求人サイトに登録して副業の仕事を狙っていたんです。そうしたら亮さん(SASI / 経営戦略)から連絡が来たんですね。当時亮さんは別会社にいたんですけど。それで話をしていたら、ウマが合うなと思って。その後に亮さんから、前の会社を辞めてSASIっていう会社に関わっているという連絡がきたんです。そこの近藤社長と二村さんは話が合う気がするので紹介しても良いですか?って言われて。それでSASIと出会ったという感じです。

あの求人サイトに登録していなかったらSASIには出会っていないですね…。
結果論にはなるけど、やれることはやっておこうという精神はこういうところから来ているのかもしれないです。
三つ子の魂百までって言うけど本当にそうですよね。人ってあんまり変わらないと思うんです。変わらない自分が好きか嫌いかって言うだけで、体を置く場所を変えることで幸せになるかならないかが決まるっていう持論ですね。

────なるほど…。今後の展望などはありますか?

たくさんあるんですけど…1番は日本の資源を海外にもっと知ってもらうことです。
資源っていうのはIPという文化資産、キャラクターとかアニメ作品とかクリエイティブのアウトプットの話もあれば、日本人の思いやりの能力とか、ハイコンテクストを扱う能力をもっと海外の人に知ってもらって、“価値がある状態で買ってもらう”ということをやりたいんです。
そのためにデザイン経営を使って、良い技術を持っているけどアピールが滞っている中小企業を支援して、海外まで持って行きたいなと思っています。
働き方も今のSASIの群れ経営みたいに、個々が自立していてやりたい仕事をやりたい時にやる状態をどういう風に作っていくかが大事になってくると考えています。

世界中をボーダレスにしたくて。日本の良いものは世界に持っていくし、世界の良いものは日本に取り入れたいんです。それぞれが自立していないと行けないので、子供の頃から自立できるような教育もやりたいなと思っています。
僕自身、小学校の教育方法があまり好きではないんですね。子供たちにアイデンティティについてとか、アートのこととか、自分の好きなことで稼ぐにはどうすれば良いのかを教えられる学校を作って、育成して送り出す、という一連の流れを作りたいですね。

実現するか分からない壮大なスケールの話ですけど、正直実現しなくてもいいと思っていて。無責任だけど(笑)死ぬまで自分の好きな遊びを絶やしたくないと思っているので、テーマは大きい方がいいんです。

名古屋市中村区

東京特別区部を除くと横浜市、大阪市に次ぐ全国第3位の人口を有しています。 中部地方・東海地方における行政・経済・文化の中枢。 都市としての高度な機能と、「秀吉・清正生誕の地」としてロマンあふれる歴史が共存しています。