感受性と表現力 | DOOR-MAGAZINE 感受性と表現力 | DOOR-MAGAZINE

感受性と表現力

幼少期から感じていたことや、SASIに入社するまでの話など。人生の転機や今後取り組みたいことについて伺いました。

今回は、SASIでデザイナーとして働く 荻生こころ のルーツを探るインタビューです。

────こころさんはどのような幼少時代を過ごしましたか?

私は母の実家がある神戸で生まれました。住んでいたのは千葉です。3年くらい住んでいたんですかね…あまり覚えてはいないのですが、1つだけ覚えていることがあって。それはベビーカーに乗ってディズニーランドに行った時に、ピーターパンに出てくるフック船長に抱っこされそうになって、大号泣したっていう記憶なんです。記憶力が良い方なので、親や友人に驚かれることが何度もありますね(笑)千葉の次は広島に引っ越しました。転勤族だったので、この頃は引っ越しが多かったですね。広島には2年くらい住んでいました。そこでは自然豊かなところにある幼稚園に通っていましたね。裸足で外に出て走り回って、全身泥だらけになって、ホースで体を洗われて…みたいな感じでした。短い期間でしたけど、とても楽しかったのを覚えています。当時の幼稚園の先生が引っ越した後もずっと気にかけて下さっていて、今でも先生とは年賀状で近況を書いて送り合っています。考えたら15年くらい続いていますね…すごい年月が経ってますね(笑)

その後神戸に引っ越すんですけど、母と姉が寂しそうにしていたり、泣いているのを見て、「引っ越ししたら友達と会えなくなるかもしれないんだ」ということを初めて感じたのもこの頃ですね。神戸に来て、周囲の話し方が変わったことに戸惑っていたのを覚えています。私自身が広島弁だったわけではないのですが、自分がどんな言葉を話したらいいのか分からなくなって、ずっと標準語で話していましたね。それは中学生くらいまでずっと続いたんです。さすがにそこからは関西弁になったんですけど、友人からも不思議がられてましたね(笑)

────小学校からはずっと神戸に住まれていたのですか?

そうですね。それからはずっと神戸に住んで、家の近くの小学校に通っていました。
ピアノ・習字・そろばん・水泳などを習っていました。水泳を1番メインでやっていて、週2でずっと泳いでましたね。今でもたまに市民プールに行ったりもします。

あと小学校の時でいえば中学受験ですね。姉と同じ学校に行きたくないなと思って(笑)3歳差なので学校が被ることはないんですけど、なぜか同じルートを辿るのが嫌になってしまったんです。小学校5年生の時に「受験したい!」と親に伝えて。中学受験にしてはとても遅めのスタートなんですね。私自身が頭の良い方ではなかったので周りもびっくりしていました。塾も大変でしたけど、1番しんどかったのは、周りの大人が参っていくことですね。私のせいでみんなにしんどい思いをさせてしまっているって思っていました。本当に誰も私が受かるとは思っていなくて、期待されていなかったんです。だって合格発表の日に父親に「現実を見てきなさい。」って言われたんですよ(笑)今思ったらそんなこと言わなくてもって思うけど、それくらい奇跡的に合格したんですね。私自身も合格したことは運だと思っているのですが、あの時に受験をしていなかったら、友人や大切な人たちに会うことはなかったし、DOORで働くこともなかったし、SASIでデザイナーとして働くことも絶対になかったと思うので、本当によかったなと思います。

────中学校ではどのように過ごしていたのですか?

入学はできたものの、入学後すぐは周りとの学力の差とか、私立だったので生活態度とかもきっちりしていて…あ、合わないと思って(笑)選択を間違えたのかなと思ったりもしました。

1番記憶に残っているのは、中学2年生の春休みに、マレーシアのボルネオ島にある小さな村に植林のボランティアに行ったことですね。元々そういう場所に漠然とした興味があって、学校でチラシが配られたことがきっかけで参加しました。それが本当に楽しかったんです。電気や水道が不十分で、お風呂も雨水を溜めたタンクから水をすくって頭とか体を洗ったり、トイレも外にあって、水を汲んで流すみたいな生活でした。”当たり前”なんてこの世に存在しないんだっていうのを身を持って体験しましたね。

その中でも鮮明に覚えていることは、夜空が星で埋め尽くされて白く見えたことです。綺麗って思ったのと同時に怖くなって涙が出て。こんな綺麗なものが見えなくなっている場所に自分は住んでいるんだと思ったんです。今の自分の生活ってなんなんだろうって感じて。それで思い出したことがあったんですね。それは小学生の時に家族で天文科学館に行った時に、天体望遠鏡で木星を見た時のことなんです。嘘みたいにはっきり見えて、その時も怖くなって泣いてしまったんです。木星が壮大すぎて、自分が小さく見えすぎて、まだ小学生なのにこれから大人になっていくことが怖くなったんです(笑)綺麗すぎるものを見ると怖くなるっていうか、畏怖の念っていうんですかね。その感覚を久々に思い出したのがマレーシアでした。

でもあの村で過ごした日々は自分の23年間の人生の中で1番充実していたというか、今思い出してもなんていうか…すごい1週間だったなと思います。人間的で、生きてるって感じの生活でした。帰国する時も帰りたくないってずっと言っていて…それで日本に帰ってきたら蕁麻疹が出たんですよ(笑)空気が汚く感じて、ケータイで連絡を取りあってるのとかが急にだめになって。すぐに元の生活には戻ったんですけど、それも少し寂しいですよね。

────それはすごい経験ですね。高校はどのように過ごされていたのですか?

中学では、怪我をしたことからバスケットボール部のマネージャーをしていたんですけど、高校からは吹奏楽部のパーカッションパートに入りました。中高一貫校なので高校から吹奏楽を始める人はいなくて、結構大変でした。平日の朝も土日も部活がありましたね。今考えると生活のほとんどを学校で過ごしていたなって思います。でも、高校3年生の時にパートをまとめるリーダーになったんです。自分より経験年数も技術もある後輩にどうやって指示したり、中学生から高校生までのパートメンバーをどうやってまとめていこうって考えていました。技術は練習でなんとか追いつこうと思って、メトロノームをイヤホンで聞いて、頭の中でドラムを叩いてっていう練習をしながら学校に行っていましたね(笑)メトロノーム聞いて登校してるって今考えたら頭おかしくなりそうですけど、その時は必死だったんです。夢の中でもドラムを練習してて、結構追い詰められてたんですかね。それでもみんなで演奏するのは大好きでした。仲の良い友達がほとんど吹奏楽部にいたので、部活に行くことが苦では全くなかったので、今考えたら青春ってああいうことをいうんだなと思います。

────大学ではどのようなことをしていましたか?

大学は関西学院大学に進学して、メディアに興味があったので社会学部を選びました。結局ゼミは全くメディアに関係ないところに入るんですけど(笑)大学はサークルに入っていなかったので、アルバイトと1年生の時から飼い始めた犬が中心の生活でしたね。アルバイトはBookcafe DOORとテレビ局の制作部でしていました。

テレビを観ることが本当に好きで。幼い頃から毎日必ず見ていたし、深夜の番組を録画したり、番組DVDを買ってもらったりしていました。辛いことがあって人を遮断してしまったり、しんどくて学校を休んだりした時も、テレビやラジオというメディアに支えられてこれまで生きてきたと思っています。そのテレビを作っている人を近くで見てみたくて、テレビ局制作部のアルバイトに応募しました。実際に働いて、現場を近くでみたり、制作の人と色々な話をしたり、本当によくしてくださって。大変なこともありましたけど、本当にあそこで働けてよかったなと本当に思います。あと私は昔から職人さんに憧れがあったんですね。でも自分はそういう職種にはつけないと思い込んでいたのですが、テレビ局で働いたことで、やっぱりものを作る人はかっこいいと感じて。自分もそういう仕事につきたいと思うようになりました。

DOORは家の近くなので、工事をしている時から前を通っていて。ここに飲食店ができたら応募しようかな〜と軽く思っていたら、カフェができるって聞いてすぐに応募しました(笑)面接の時に、1人でお店を回せるようにしたいという話をされて、当時まだ19歳になったばかりだったので、未成年が雇われる場所ではないと思って、採用はされないだろうなと思ったんです。なので面接では楽しく話をして、「お客さんとしてまた来ます」って言って帰ったら、なんでか採用してもらえて(笑)洋平さんと一緒にオープニングスタッフとして働き始めました。あと私はお菓子作りが好きだったので、働き出してすぐにメニューとしてケーキを提供できたことがとても嬉しかったです。当時はSASIでデザイナーとして働くことになるなんて、1mmも想像していなかったですね。

────SASI働くことになった経緯を教えてください。

就職活動を始める大学3年生の時にコロナが流行り出したんですね。学校もバイトもなくなって、人と会わなくなってしまったので、周囲の人たちがどれくらい就活をしているのかも全然分からなかったんです。ゆるーく就活をしていて、冬くらいから少しづつ考えるようになっていったんです。でも履歴書の志望理由が書けなくて何時間も席に座ったままみたいな状況が続いてしまって。実際の面接に進んでも、落ちてしまっても不安だけど、受かって進んでいくことも同じくらい不安だったんです。今考えれば自分がしたいと思っている仕事ではなかったからだと思うんですけど、その当時は辛かったですね。「何かを作る人になりたい」っていう漠然とした考えしかなくて。それでもしたくない仕事をしていくの?このままじゃだめなの?って親に言ったこともありましたね(笑)それでも面接を受けていて自己PRをした後、面接官の方に「クリエイティブな方なんですね」っていうフィードバックをされたんです。それは良い意味っていうよりは、求めている人材には合っていないというニュアンスに聞こえてしまって。クリエイティブな仕事に就きたいけど、それができないから頑張っているのにって思ったんです。今思えば、余裕がなかったから良くない方に捉えてしまっていたのだと思うんですけど。そんな状況の中で、DOORでバイトしている時に、清人さんから「最近どう?」って軽く聞かれただけで涙が止まらなくなってしまったんです。それで今自分が感じていることや思っていることをそのままお話したんですね。そうしたら清人さんから「前からデザイナーとして一緒に思っていた」と言っていただいて。それでSASIで働くことになりました。

────そのような流れだったのですね。今までのこころさんの人生に転機はあったりしますか?

転機と言えるのかは分からないですけど、考え方が変わり始めたのは高校2年生くらいですね。それまで私は色んなことを美化して捉えていて、”大人”のことを完璧だって本気で思っていたんです。ミスをしないとかそういうことではなくて、人として完成されているものだって思っていて。

高2くらいの時に、大人に対しての違和感とか不信感を持つことが多くなっていったんです。それが当時の私には受け入れられなくて、とてもしんどくなってしまったんですね。誰を信用して自分が思っていることを伝えたらいいんだろう、悩んでいることは誰に相談したらいいんだろうっていう風になってしまって。そういう思いが大きくなってしまったまま高校を卒業したんです。人を信頼するっていうことが難しくなってしまったんですね。今でもそのことがあって、物事をあまり断言できなくて。“絶対”なんてないと思ってしまっているので。

でも大学生になってアルバイトをしたDOORとテレビ局って、ほとんど大人しかいない職場だったんです。たまたま2つとも、同い年の子と一緒に働くっていう環境ではなくて、大人の中に学生1人っていう環境だったんですね。特にテレビ局で色んな人を見て、良い意味で大人像みたいなものが崩れたんですね。こんなもんなんだって、完璧にならないとって思っていたものが、そんなことしなくてもみんな生きてるって思えたのが大きかったんです。自分がこれから生きていくことに対して少し楽観的になれたのは大きな変化だったなと思います。

────今後の展望はありますか?

今の時点で、自分で起業したい!とかはあまりないんですけど、ただただ色んなジャンルのデザインに触れてみたいと思っていて。一通りやってみてからそのあとどう感じるのかな…くらいの感じです。いつか洋服に関わる仕事はしてみたいと思うけど、それを一生の仕事にするのかと言われたらそれもまだ分からないですね。将来のことはぼんやり考えているくらいです。良いのか分からないですけど(笑)

あ、ちなみに、今1番興味があるのはジェネラティブアートです。
マレーシアでの話になるんですけど、村に行った時に相手に伝えたいことが自分の英語力では全然表現できなかったんですね。こんなに思っているのに、伝える術がないっていう状況が本当に悔しかったんです。それで帰国したあと、3年間くらい英語の塾に通ってたくさん勉強したんです。それで結構強くなれたんですね。

私は“思っていることを上手く表現できない”っていうことが1番悔しいと感じるんだってこの時に気付きました。SASIに入ってからも、絵をもう少し上手くなった方が自分の思っていることを伝えられるんじゃないかと思ったりもして。ジェネラティブアートはこの感覚に近い気がしているんです。

私、幼い時から高熱が出てる時に見る夢があるんですね。それを見たら今自分に熱があるのかもって気付くくらいその夢を見るんです。内容を口で伝えても、なかなか人に伝わらないんですね。伝わらなくても何も問題はないんですけど(笑)それでも伝えることができるなら伝えたいと思うんです。人に伝えることができないと思っていたことが、もしかしたら伝えられるかもしれないと思ったら、すごいワクワクというかゾワゾワしてきて。

ほんとにちょっとずつ勉強を始めてるんですけど、今の私には理解することすら難しいので、思った通りのものを作れるようになることを考えたらだいぶ先になりそうですけど…なのでいつになるかは分からないけど、いつかSASIのスクリーンに私の作ったものを写して、みんなに見てもらおうと計画してます(笑)頑張ります !

兵庫県神戸市

兵庫県の県庁所在地。海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深のある扇状の入り江部に発展した神戸港を有する日本を代表する港町。 大阪市や京都市と共に、京阪神大都市圏における中心都市である。

荻生こころさんのワークショップの記事を見る